今までの出来ごと

ここでパレスチナに関する出来ごとを簡潔に投稿します。必要に応じて時期的に更新します。


1917年:バルフォア宣言でユダヤ人はパレスチナに入植し始めた


1936年:イギリスによるユダヤ人の強制入植に対してパレスチナ革命が起きた

1947年:リソリューション181によりパレスチナ土地の55%がユダヤ人に渡された

1948年:第一次中東戦争でアラブ諸国が負け、イスラエルはさらにパレスチナ土地の77%を占領

1949年:ロードス休戦はイスラエルの領域を認定

1956年:ガザ地区がイスラエルに占領された

1957年:ムスリム同胞団はガザ地区を取り戻した。ここからムスリム同胞団の一部がファタハを設立

1960年:ムスリム同胞団はファタハに対する反対の宣言をした。そのせいでファタハが好評になり同胞団は疎外された。

1967年:第三次中東戦争でイスラエルはエルサレムを占領

1970年代:ムスリム同胞団とファタハの違いが明確になり始めた

1979年:イスラエルでリクード政党が選挙に勝った

1984年:ムスリム同胞団が戦争の準備をしているのをジオニスト政権に明かされ、統率者が政権に逮捕された

1985年:ムスリム同胞団の活動家たちがデモを行った

1987年:同胞団がハマースに改名。第一次インティファーダがパレスチナ中に広がった

1989年:ジオニスト政権はハマースを禁断の団体と宣言

1991年:湾岸戦争

1993年:オスロ合意にアッバス議長とジオニスト政権が契約した。以下のオスロ合意の内容に対してハマースとパレスチナ人は大反対した:
1.            パレスチナ人はヨルダン川西岸とガザ地区の政権を5年間だけ与えられる。
2.            パレスチナ政権の三年目が始まる前に、ガザ地区とヨルダン川西岸の最終境界線が決められる。安全保障理事会の決議第242と第338によりこの境界線は恒久的境界線となる。
3.            合意の2カ月の間に両側はガザ地区とエリコからのジオニスト軍の撤退に同意しなければならない。
4.            政権の9ヶ月後、自治区で新しい政権の選挙を行わなければならない。その時ジオニスト軍はパレスチナ人の住宅地域から撤退する。
5.            パレスチナ政権はヨルダン川西岸とガザ地区にのみ政権を持っている。彼らは外交関係に意見を述べてはいけない。また、外部からに脅威をかわすための軍や武器などを持ってはいけない。ヨルダン川西岸とガザ地区にあるユダヤ人の住宅地域ではパレスチナは政権を持たない。
6.            ジオニスト政権またはイスラエル政府はパレスチナ政権が決めたあらゆる決断に対して絶対拒否権を持つ。
7.            政権の降伏は時期的に行われる。
8.            パレスチナ人の平和を守ることだけにする限り、パレスチナ政権はテロとして標識されない。そしてジオニスト政権に対するあらゆるパレスチナ人の反対を徹底的に根絶しなければならない。

1996年:パレスチナにおいて選挙が行われたが、ハマースが選挙をボイコットしたためファタハは完勝

2000年:当時のイスラエル総理大臣が軍隊とともにアクサ・モスクにむりやり侵入し数人のパレスチナ人を殺害した。火に油を注がれたパレスチナは第二次インティファーダを起こした。

2004年:ハマースは10年間休戦を提案したが、断られた。休戦の内容は以下のとおり:
1.            ジオニスト政権は1967年に定められた境界線によってエルサレムとヘブロンも含めてパレスチナから撤退する。
2.            ハマースと同時にジオニスト政権は武器解除をしなければいけない。これを破った方は徹底的に攻撃される。
3.            戦になった時は両側は一般人をターゲットにしてはいけない。
4.            国連はガザ地区とヨルダン川西岸をジオニスト政権から守らなければいけない。

20051月~5月:アッバス議長がパレスチナの大統領になった。ハマースは大統領の選挙をボイコットしたが、市会議員選挙で人口の多い地域で数々の議席を手に入れた。そしてハマースは冷却期間を宣言した。

20059月:ジオニスト軍はガザ地区から撤退した。国民はそれをハマースとパレスチナ人の抵抗の成果として認めた。

2006年:ハマースは132席から74席の議席を勝ち、パレスチナの有効な政権を握った。

2010年:ガザに向かっている援助の船がジオニスト軍に侵入されて、国際的な騒ぎとなったため、パレスチナの問題に大きく影響を与えた。