背景

神聖なる地域

イスラム教徒にとってもユダヤ教徒にとっても、パレスチナとイスラエルが奪い合っているこの土地は神様が数千年前から指定した聖域である。
イスラム教徒にとってここは第三神聖なモスク、つまりアクサ・モスクが建てられた土地である。(第一がハラム・モスクであり、第二がナバウィ・モスク)
ユダヤ教徒にとってここは神様が彼らに約束した神聖なる土地である。ユダヤ人の歴史はここで始まり、故郷みたいなところでもある。ここにはジオンという丘があり、埋められたソロモンの神殿があると彼らが信じ、今でもそれを探している。
この二つの理由でイスラム教徒とユダヤ教徒とはずっとこの土地を奪いあって今になって戦争に至った。
さて、キリスト教のほうは関係があるのかしら?キリスト教徒にとってここはイエスが生まれて活躍してやがて十字架に張り付けられ殺された聖域である。
つまり(イスラエルが奪い取った地域も含めて)パレスチナは世界のもっとも有名な宗教のどれもにとって聖域である。

聖域の初期歴史

ご存知のようにイスラエル族の歴史はイブラヒムの頃から始まった。ムサ(モーセ)が生きたころイスラエル族はエジプトに住んでいた。コーランによると、ムサとイスラエル族たちが当時のファラオ(エジプトの王様)に攻められたとき、ムサは自分に下された力で海水を真二つに割れたという奇跡を起こした。ムサたちはそのチャンスを使って海を渡り、たどり着いたのが今のパレスチナである。

それ以来ムサたちはパレスチナに住むことになった。ところがイスラエル族の多くがだんだん調子にのって自分たちだけが楽になるように色々な奇跡を起こしてほしいと何度もムサに言うようになった。ムサが亡くなった後でもこの状況は変わらなかった。*詳しくは「ムサ」を見てください*

何人かもの預言者が続々と生まれるほどイスラエル族はその地域に住んでいた。しかしイサ(イエス)が生まれる大体60年前に、ローマ帝国に支配されるようになりイスラエル人たちは圧迫されるようになった。このときイスラエル人たちはローマ帝国軍に自分の国から追い出され、世界中に散らばってしまいユダヤ人として知られるようになった。

そしてイサが生まれた後でも、キリスト教が成立した後でもその土地はずっとローマ帝国に支配されていた。

イスラム教の出現

最後の預言者、ムハマドが生まれた時までもパレスチナはまだローマ帝国に支配されていた。ムハマドがイスラム帝国を成立させ亡くなった後、イスラム帝国は大きく広がった。638年にローマ帝国が戦争に負けパレスチナはイスラム帝国の一部になった。その時点でパレスチナはメッカとマディーナの次に聖域となった。

キリスト化されたローマ帝国は教会の命令で何度もパレスチナを取り戻そうとしていた。1063年に、教皇のアレクサンダー2(Pope Alexander II) はキリスト教徒たちにパレスチナを奪い取れといい、成功した者には名誉を与え罪をすべて許してやると約束した。それこそが十字軍として今知られている。1099年に十字軍がパレスチナを奪い取れて、200年間近くその地域を支配していた。

再攻略

パレスチナが敵に攻略された時、すでに内なる亀裂が発生したイスラム政府は失望し始めた。この状況は長く続いたが、これを変えたのは立派な統率者が現れた時だった。この人はサラーフッディーンと呼ばれ、意見の違いで離ればなれになったアラビア社会をまとめることに成功した。そしてイスラム軍をリードして1187年にパレスチナを再攻略した。1291年までにパレスチナに建てられた十字軍の要塞は全部破壊された。

それ以来パレスチナはイスラム帝国の支配で平和な国になっていた。昔そこに住んでいたイスラエル人さえ迎えられ、一部がパレスチナに戻り暮らしていた(ほとんどは外国に住むことにした)。イスラム帝国は再び広がり、オスマンの時代まで続いていた。

19世紀からイスラム帝国は近代化を追い欧米の力に頼るようになった。亀裂はまた発生し、イスラム帝国は弱まった。当時の統率者はただ名を持っているだけで決断力も実力も大きく欠かしていた。弱くなったイスラム帝国はとうとうイギリスやフランスなどの欧米諸国に従うようになった。

第一次世界大戦

1914年に第一次世界大戦が起こった。この戦争で戦っているのは大きく二つに分けられていた。片側には三国協商と呼ばれ、イギリスとフランスとロシアとの組合だった。一方、中央同盟国と呼ばれたほうはドイツとオーストリア・ハンガリーとの組合だった。戦争の途中で三国協商に参加した国がアメリカやイタリアであり、中央同盟国に参加したのがオスマン帝国(当時のイスラム帝国)であった。

オスマン帝国は激しく敵に攻撃された。オスマン帝国の東部はイギリスに、西部はフランスに攻略された。同時に北部はロシアにやられた。ここで注目してほしいのは、当時のオスマン帝国はまだ一つの国であり、統率者は一人しかいなかったが各地域には州知事がいた。

アラブ諸国の境界線づくり

このときオスマン帝国はさらなる悲劇に落ちた。イギリスはロレンスというスパイをアラビアに送りアラビア人の間でナショナリズムという火を灯してトルコと喧嘩させた。当時トルコはオスマン帝国の中心だったが、アラビアも当然帝国の一部だった。しかし狂信的に愛国心になったアラビア人はオスマン帝国の政府を攻撃し始めた。アラビアのリーダー、ファイサル1世はトルコを裏切ってイギリスを味方にした。それからアラビアはずっとイギリスのいいなりになった。

1915年にイギリスはイラクに移住し、1917年にパレスチナに移動した。イギリスの将軍、アッレンビ(Allenby)はイギリス軍とともに1917129日にパレスチナに入り、「今日はやっと十字軍の戦争が終わった」と言っていた。

同じ年にバルフォア宣言が公告された。この宣言はイギリスとユダヤ人の契約であり、その内容の一部がパレスチナをユダヤ人のものにすることだった。パレスチナに住むユダヤ人の数が5万人から50万人に増え、同じく住んでいたイスラム教徒の人数が大体140万人だった。

この宣言が相談された時、ユダヤ人からの代表はハイム・ヴァイツマンという人だった。ヴァイツマンは科学者でもあり、アセトンを初めて開発した人である。このアセトンはコルダイトというものとして使われ、イギリスの戦勝に大きく関連した爆弾の一種である。
その時ヴァイツマンはイギリスの代表、アーサー・バルフォアにこの契約を追求していた。ヴァイツマンの開発で戦争に勝てたと思い、バルフォアは同意した。バルフォアは彼にウガンダにある土地を申し出たが、ヴァイツマンは自分がパレスチナが欲しいと言ってウガンダの土地を断った。

ヴァイツマン:バルフォアさん、もし私があなたにパリかロンドンかをあげようとしたら、あなたはどちらが欲しいですか?

バルフォア:だがロンドンはすでに私たちのモノです!

ヴァイツマン:その通りです。だが、ロンドンがまだ沼地だったとき、私たちはもうパレスチナに住んでいましたよ!

と仕方なくイギリスはパレスチナをユダヤ人に渡した。

1919年にファイサル1世はヴァイツマンと契約を結び、自分とアラビア諸国のバルフォア宣言への同意を明確にした。

これで第1次世界大戦は幕を閉じた。オスマン帝国がばらばらになった上、イギリスとフランスは奪った地域に植民地主義を実行した。これこそが人々が国と民族によって判別される始まりであり、同じ宗教の人でもぶつかりあうようになったきっかけである。

(続く)